第3話 業界の常識に挑む
1950年(昭和25年)~1959年(昭和34年)
再出発の時
昭和26年のある日のこと。
「これは・・・」
机の上に広げられた図面を前に、誰もがその先の言葉を失っていたのでした。全長37㎝、両翼の長さ実に39㎝、そのケタ違いの大きさもさることながら、そこには日本を敗戦に追い込んだ米国の爆撃機「B-29」の姿が描かれていたのでした。
「今回の戦争で日本はこいつに滅茶苦茶にされたが、アメリカにしてみればこいつは一番の功労者なんだろうさ。だから今度はこいつを作って、日本のおもちゃ屋の技術がどんなに素晴らしいものか、アメリカの子どもたちを驚かせてやろうと思っているんだ。」
手のひらに乗るような小さなおもちゃが当たり前の時代、誰もが栄市郎の思いつきを無謀だと笑い、その成り行きに好奇の目を向ける中、栄市郎は息子の允就や技術責任者の小島康三郎らと共に試行錯誤を繰り返した末、当時としてはおそらく世界最大級のフリクション玩具「B-29」を完成させたのでした。
米沢商会を通じ日本橋三越に並べられた「B-29」の価格は500円。かけそば1杯15円の時代の500円という破格の値段だったにもかかわらず、ほんの数時間で店頭から商品がなくなるほどで、まさに“飛ぶような”売れ行きは業界関係者を驚かせたのでした。
「B-29」は国内にとどまらず、翌年のニューヨーク・トイフェアでも、アメリカのバイヤーに驚きと称賛をもって迎えられました。
日本からの輸出玩具の多くは50セントから1ドルというところ、「B-29」は5ドルという価格にもかかわらず、爆発的な人気を博し、栄市郎のもとにはさばききれないほどの注文が殺到したのでした。
やはり自分の居場所は中川の川っぺりなんかじゃない、ケトバシの音と油の匂いがしみ込んだおもちゃづくりの現場なんだと、決意を新たにした栄市郎に思いもよらぬ出来事が襲い掛かります。昭和27年2月、雪が降りしきる寒い夜、本田工場で漏電火災が発生したのでした。
火の回りは思いのほか早く、かろうじて「B-29」の金型とプレスは持ち出すことができたものの、工場は全焼。いよいよこれから、と「B-29」の量産に向けて従業員全員が胸を躍らせていた矢先のことでした。
燻り続ける煤けた柱は明け方になっても熱を帯び、焼け落ちた工場に足を踏み入れることもできずにただ茫然と立ち尽くすばかりの従業員たちを残し、朝一番で栄市郎が訪ねたのは米沢商会でした。
挨拶もそこそこに栄市郎が懐から取り出したのは新しい工場の図面だったのでした。まさに数時間前に工場が全焼したばかり、そんなタイミングでの話というのもさることながら、さらに驚くべきはそれがこれまでの工場よりもはるかに大きな工場の図面だったことです。これには米沢喜孝社長も一瞬、栄市郎の顔を見つめ言葉を失いました。
「「B-29」の量産を実現するためにも、この際大型工場を建設しようと思うのだが、どうにも資金が足りなくて困っている。ついては300万円貸してもらえないだろうか?」工場の図面を前にそう切り出した栄市郎も栄市郎なら、「わかりました。お貸ししましょう。」とふたつ返事で応えた米沢社長もまた、日本のおもちゃで世界の市場で賑わせたいと強く願う玩具産業人の一人だったのでした。
翌日、約束通り300万円入った風呂敷包みを小脇に抱えやってきた米沢社長の手をとって、「ありがとうございます」と頭を下げた栄市郎はその後、まっすぐに米沢社長の目を見つめこう言ったのでした。
「ところであと300万円、融通していただけませんか?」これにはもう、米沢社長も笑うほか、返す言葉が見つかりませんでした。
こうして600万円を元手に、栄市郎は失った本田工場を遥かにしのぐ大型工場をわずか1ヶ月あまりで再建し、いよいよ新工場での「B-29」の量産が始まりました。そして新工場の操業に合わせ、富山玩具製作所は新たに合資会社三陽玩具製作所としてスタートを切ることになったのです。
繰り返された過ち
3月の工場再開の時には60名だった従業員も、「B-29」の大量受注に応えるために、翌28年には300名近くにまで達していました。
米沢商会からは毎日のように注文が入り、朝から晩まで響く機械の音は、この先決して止むことがないものだと誰もがそう信じて疑わなかったのでした。
しかし28年夏、その日は突然やってきました。
「B-29」の失速。
アメリカでの人気低迷で、米沢商会からは大幅な減産要請が伝えられ、すでにこの頃400名にまで膨れ上がっていた工場はなすすべを失います。栄市郎は苦渋の決断を迫られることになりました。
昭和恐慌、日中戦争、これまでにも身を切られるような思いで断行してきた人員整理に、三度取り組まなければならないのか。工場の門前にはためく赤旗を見つめ、栄市郎は自らのふがいなさにただただ唇をかみしめるばかりでした。
「B-29」のヒットに沸いた28年1月17日には、合資会社三陽玩具製作所を改組し、三陽工業株式会社が設立されました。
世界を相手に戦うために、一人の親方が切り盛りする昔ながらのおもちゃの作業場から、近代的な会社組織へと大きく転換を図ったのでした。まさに念願の会社らしい会社を作り上げた栄市郎にとって、「B-29」失速による経営危機は、販売機能をもたないメーカーの限界を思い知らされることとなりました。
米国輸出にその大半を依存する会社でありながら市場動向も知らず、バイヤーに言われるがままに商品を作り続ける。
その結果、その先にあるのは大量の在庫と人員整理という現実。栄市郎はこうした反省を踏まえ、昭和30年11月、息子允就とその中学時代の学友で翻訳のアルバイトを依頼していた岩船浩を米国市場調査に送り出したのでした。
初めて彼の地を自らの目で、足で確かめた二人は、手持ちの現金をすべて使い果たし、さらにはインポーターに借金してまでサンプルを買い集めることに熱中したのでした。
また、日本領事館の紹介で、当時から米国でも一流メーカーと評価の高かったマテル社の工場を見学することが許され、近代化され整備された玩具の製造工程を目の当たりにすることができたのです。こうして米国の玩具メーカーとの違いを見せつけられた二人は、帰国するや新鋭設備を備えた工場の建設を進言し、ほどなく第三工場の新設が実現したのでした。
この頃、栄市郎は東京輸出玩具工業協同組合の理事長に就任し、彼の時間と精力は徐々に業界活動へと傾いていったのでした。
玩具業界に訪れた変革の時
昭和31年の経済白書は、敗戦から劇的な復活を遂げてきた日本の底力を「もはや戦後ではない」というフレーズのもとに高らかと謳いあげたのでした。
その旗印となった「イノベーション(技術革新)」は玩具業界にも大きな変化をもたらしました。金属玩具からプラスチック玩具へ、フリクション玩具から電動玩具へと素材革命、技術革新が進んでいったのでした。
こうした世の中の動きに敏感で、好奇心も人一倍旺盛な栄市郎はすでに20年代前半から新しい素材、新しい技術への研究を若いメンバーに指示し、機が熟すのを今や遅しと待ち構えていたのです。
そして、31年に新設された第三工場ではいち早くプラスチック研究に取り組み、32年には第三工場内に樹脂設計部門を設置し、プラスチックの本格導入を実現したのでした。
その過程で発売されたのが、キャップにプラスチック素材を取り入れたブリキ電動玩具「シャボン玉を吹く象」でした。プラスチックという新素材を取り入れた、さらにフリクションではない新しい領域の玩具として開発された電動玩具として、32年2月のニューヨーク・トイフェアで人気を博し、米沢玩具からの注文に、新設の第三工場はにわかに活気づいたのでした。しかし、これまで問屋の言われるがままに商品を作り続け、人員を増やして対応するも、最後には在庫を残し人員整理に手をつけるといったことを繰り返してきたことを教訓として学んできた栄市郎たちは、浮足立つことなく冷静に生産計画をたてて、商品の供給を行なっていったのでした。
「自分たちで作ったモノを自分たちで売る」―――――― これまでの歴史の中では、他業界での常識も、玩具業界では非常識として受け止められてきたのです。
企画から販売まで、お金の流れもモノの流れも押さえてきた製造問屋からすれば、メーカーが販売会社を作るなどというのは業界の秩序を乱す、衝撃的な構想にほかならなかったのでした。独自の販売組織をもつべきであるとする息子允就と岩船浩の提言に耳を傾けながら、栄市郎はいよいよこの時が来たと深い感慨を覚えずにはいられませんでした。
ひとたび決断すればその後の動きは早く、これまでお世話になり続けた米沢玩具(米沢商会から改名)の米沢靖喜社長のもとを訪れ、販売会社設立の想いを熱く語り、「わかりました。頑張ってください。」という言葉を引き出したのでした。
昭和34年3月9日、ついに創業以の宿願であった販売会社 富山商事株式会社が設立されたのでした。自らの販売会社が取り扱う記念すべき第一号商品は画期的で話題性のあるものにしたいと、議論に議論を重ねて決まったのは、自社初のオールプラスチック玩具「スカイピンポン」でした。
金属玩具全盛の時代に、あえてオールプラスチックの玩具に取り組むというのは、“開発の富山”の面目躍如となるものでした。允就らが米国視察旅行で買い集めてきたサンプルをもとに開発された「スカイピンポン」は、円錐型のラケットの中にあるバネを使ってピンポン球のキャッチボールを楽しむスポーツトイでした。
商品化の過程で課題となったのは、ピンポン球を飛ばすための板バネが折れやすく、耐久性のある素材にすることで高価になってしまうという問題でしたが、バネを交換することができる構造にして板バネのスペアをセットにすることで、耐久面への配慮と買いやすい価格に抑え、お客様第一の姿勢を貫いたのでした。その後、富山商事全社一丸となっての販売促進活動が始まりました。
社有車のボディには「スカイピンポン」のイラストが描かれ、当時はまだおもちゃでは珍しかったテレビCMの投下や山手線での中吊り広告などの宣伝活動も積極的に採り入れました。また、売り場でのイベントや当時憧れの飛行機DC-3型機での東京上空親子招待キャンペーンなどの新しい販促活動を次々に展開し、業界の注目を浴びることとなったのでした。
こうして発売された「スカイピンポン」は大ヒット商品となり、洋々たる船出を果たした富山商事でしたが、栄市郎は「市場は変わるぞ。次の一手が大事だぞ。」「ヒットのあとには必ず停滞がやってくる。気を引き締めろ。」と浮足立った社員たちに警鐘を鳴らすのでした。
富山商事は国内販売についてはもちろんのこと、海外への輸出業務においても、これまでの製造問屋に頼ることなく、直接販路を拓くことが課題となっていました。会社設立と同時に米国の主要インポーターと積極的に商談を行ない、翌年からの輸出契約を勝ち取っていったのでした。また同時期には、米国最大のメールオーダーハウスであるシアーズ・ローバック社との取引も締結されるなど、順調な滑り出しをすることができたのでした。これまでの、開発力と品質に定評がある日本の玩具メーカー「トミヤーマ」の知名度がなせる業であったと言えます。さらにこのシアーズ・ローバック社との取引は、米国において銀行や他のインポーターとのその後の関係に信頼と評価を与えてくれるものとなったのでした。
「スカイピンポン」と時を同じくして、開発陣が取組んでいたのが現在でも定番として愛され続ける鉄道玩具「プラレール」の原型となる「プラスチック汽車・レールセット」でした。ヨーロッパで人気の木製の汽車と線路の玩具を目にした栄市郎の、「いろいろな車両がレールの上を走り回る鉄道玩具がプラスチック製でできないものか。プラスチックならカラフルなデザインが可能じゃないか。」という一言から始まったのでした。
允就をはじめとする開発陣は、まず、当時の家庭では一般的だったちゃぶ台の上に曲線レールを8本つなぎ合わせて輪をつくることから始め、その後つなぎ目の形状をどうするか、レールの上を走らせる車両をどうするか、さまざまな試行錯誤を繰り返し、手ころがしの汽車がセットになった「プラスチック汽車・レールセット」が昭和34年に発売されました。そしてその2年後、モーターを積んだ「電動プラ汽車セット」を発売することで、レール玩具として定着していったのです。その過程では、つなぎ目が割れやすいというお客様からの苦情に応え、プラスチック素材の見直しやレールの形状の改良など、より遊び易いもの、品質の良いものを目指して改善改良に熱心に取り組んでいくのでした。
昭和36年、主婦層に人気の情報誌「暮らしの手帖」に優良玩具として紹介されるや一気に認知度が高まり、38年にはシリーズ名を「プラレール」として定番玩具としての地位を確立していきました。そして翌年の東京オリンピックに合わせて開通した東海道新幹線‘ひかり’が火付け役となって高まった鉄道人気の後押しで、「プラレール」は大ヒット商品となっていったのでした。