第1話 青雲之志
1902年(明治35年)〜1924年(大正13年)
9歳の旅立ち
富山栄市郎(幼名:栄次郎)は、明治35年12月14日、埼玉県北葛飾郡吉川町で荒物問屋を営む富山貞次郎の長男として誕生しました。
栄市郎が生まれた頃の富山家は、父貞次郎が家業の荒物問屋の商いに飽き足りず米相場などにも手を拡げ、順調に身上を増やし、白壁土蔵を三つももつほどの地元屈指の豪商として、多くの手代や女中を抱え、隆盛をきわめていました。
明治37年2月に勃発した日露戦争は、翌年日本の勝利で幕を下ろしたものの、国力の疲弊は思いのほか激しく、明治40年には株式市場は暴落、戦後恐慌がはじまったのです。
そうした不安定な世情に、貞次郎の商才にも陰りが見え始めます。一つ躓くとあとは転がるように堕ちていくしかなく、巻き返そうと一獲千金を夢見ては賭け事に手を染め、ついには家も蔵も土地も手放さざるを得なくなるほどに身を持ち崩していきました。
乳母日傘の生活から、物置小屋同然の納屋を改造して雨露をしのぐ生活へ。ふらりと家を出たきり、いつ帰るともあてのない父に代わり、母か祢が着物を縫う賃仕事をして日々の食い扶持を確保する毎日。
それでも栄市郎は、父への恨み言一つ言わず一家を支える母の大きな愛情に包まれて、食べるものにも事欠く貧しい生活ながら風邪ひとつひかない丈夫で心優しい少年へと成長していきました。
しかしながら、そんな栄市郎のささやかな日常にさらなる悲劇が襲いかかります。賭け事の清算にと、父貞次郎が住まいである納屋とわずかばかり残っていた土地を売り払ってしまったのです。
住む家を追われた母と幼い弟は親戚の家に、そして栄市郎はわずか9歳で丁稚奉公に出されることになりました。尋常小学校二年を修了した春のことでした。
金子製本所での出逢い
奉公先となる東京日本橋の金子製本所は、大手出版社博文館の下請けで、ここでの栄市郎の仕事は、紙を運んだり、掃除をしたり、使い走りをしたりといった雑用が中心でしたが、右も左もわからぬ栄市郎の面倒を親身になって見てくれたのは、同じ部屋で寝起きを共にする弁護士志望の帝大生小川英太郎でした。彼との出逢いは、栄市郎の人生に大きな影響を与えるものとなりました。
朝早くから夜遅くまで、製本所での作業は深夜1時、2時にまで及ぶこともあり、時に立ったまま眠りこんでしまうほど、9歳の少年にとってそれは過酷な毎日でした。
しかしどんなに作業が忙しくても、小川は朝4時には起床して、弁護士になるための勉強を欠かすことはありませんでした。その姿に触発された栄市郎もまた、朝5時に起床しては、尋常小学校時代の教科書を開く毎日を過ごしていました。
そんな栄市郎に、小川は英語や読書の楽しさ、知ることの喜びを教えてくれたのです。呑みこみの早い栄市郎は、小川が教える英語にもすぐに親しみ、いろいろな本を眺めては、新しいものに触れることへの好奇心を養っていきました。
休みの日になると、小川は栄市郎を日本橋の丸善や神田の古本屋街に連れ出してくれました。初めて目にする外国のグラビア雑誌には、これまで栄市郎が見たこともないような珍しいものが天然色で印刷されていて、何時間も飽かず眺めては、「いつの日か外国に行って、いろんな珍しいものをたくさん見てやるんだ」と強く思うのでした。
しかし、新しい知識を得れば得るほど、栄市郎はこのまま製本職人になることに疑問をもつようになっていきます。「モノを作る仕事をしたい」栄市郎はわずか11歳にして、自分の将来について、真剣に向き合っていたのでした。
玩具との出合い
上野から約十町(一町は約109m)ばかり、浅草区松葉町(現:台東区松ヶ谷)に、栄市郎の新しい奉公先となる河野玩具製作所はありました。
27歳の若い親方河野角蔵(後に貢三と改名)のもと、栄市郎はモノづくりの魅力にますます引き込まれていくことになります。
11歳にしては体格のよかった栄市郎は、ケトバシと呼ばれるフートプレスを動かすことを命じられます。金型によってブリキの板に圧力を加えると、即座に様々なカタチが出来上がる、栄市郎はフートプレスに向かうたび、どんなものでも生み出せる無限の可能性を感じずにはいられませんでした。
朝6時から夜9時まで、15時間にもおよぶ仕事に綿のように疲れる毎日でしたが、栄市郎は決まって朝5時には起床して、飽きることなく海外の雑誌を眺めるのが日課になっていました。
金子製本所を辞める時に、小川英太郎が餞別にとくれたその雑誌は、「これからは、おもちゃに限らず広く世界に目を向けなければいけないよ」という小川の言葉とともに、栄市郎の大切な宝物になっていたのです。
月に二回、15日と月末の休みが来ると近所の花やしきに遊びに出かける丁稚仲間を尻目に、栄市郎はあいも変わらず日本橋の丸善や神田の古本屋街へと出かけて行きました。
本屋の店先で、時間も忘れて海外の雑誌を眺めては、おもちゃになりそうな飛行機や自動車、船や列車などの姿を頭に叩き込んで、部屋に帰るや細部にわたって図面を描き起こすといった時間が、栄市郎にとってはなににも代えがたい幸せなひと時だったのです。
こうして描き留めたおもちゃの資料は、いつしか押入れに仕舞い込めないほどにとなっていきました。この頃から栄市郎は仕事を終えた作業場で、わずかな時間を見つけては、頭に思い描いたおもちゃのアイディアをコツコツとカタチにするようになりました。
河野親方はそんな栄市郎を温かく見守り、秘かにその才能を高く評価していたのです。実際に走るポンポン船ができないものかと、河野親方が相談を持ちかけたのは栄市郎12歳の時のことでした。
雑誌に掲載されているドイツの汽船からアイディアをもらい、何度も何度も試作を繰り返し、眠らない夜を重ねて、ようやく真鍮製の蝋付けした焼玉を載せた、アルコール燃料で走るブリキボートの試作品が完成しました。不忍池で、快音を響かせながら水上を疾走するその姿を見た時、河野親方と栄市郎は親方と弟子という関係を越えて、肩を抱き合い、快哉を叫んでいたのでした。
この時、栄市郎の心には、苦しみの中からモノを生み出すことの喜び、開発の大切さが深く刻み込まれたのでした。
栄市郎のおもちゃづくりへの情熱は、おもちゃそのものに留まらず、おもちゃを生み出す機械の改良にも向けられました。すべてはより良いおもちゃを生み出すため、効率的な設備や工程を作り上げることもまた、栄市郎にとってはモノづくり同様に楽しい作業だったのです。そしてその考え方は、後に、おもちゃを作るために新しい工場まで作ってしまうという破天荒さへとつながっていくのでした。栄市郎が考える設備や工程は合理的で、それは同業者の間で話題となり、すぐに真似されてしまうほどでしたが、憤る河野親方に「自分たちだけでなく、みんなが便利になればもっともっといいおもちゃがたくさん生まれてくるのだから、それでいいんですよ。」と、栄市郎は笑って応えるのでした。
いつかおもちゃの王様に
16歳になった栄市郎は、親方に代わって製作所を切り盛りしていくまでに成長していました。
ある日、親方の代理で寄合に出席した栄市郎は、玩具業界の行く末をたずねられると、ブリキ玩具は他の玩具以上に意匠や機構の工夫で常に新しいものを生み出さなければならず、そのためには視野を広くし国外にも目を向けるべきであると熱弁をふるい、自分はいずれ玩具界の王様になるために、世界の動きを疎かにしないのだと言い放ちました。
玩具界の王様になる・・・奉公に出てわずか5年、栄市郎の視線の先には本人さえも想像できないほどの大きな大きな夢が広がっていたのです。
大正12年4月1日、年季が明けた栄市郎は、一本立ちの職人として河野玩具製作所に通い始めました。月給70円、栄市郎はそのほとんどを独立の資金にと貯金するのでした。それからわずか5か月、ひとかどの職人として新たな生活を歩き始めた栄市郎にとって、否、日本中の誰しもが忘れられない日が訪れます。
9月1日11時58分、昼餉の時間を襲った関東大震災は東京一円を一瞬のうちに火の海に包み込み、家屋の全焼・全半壊37万戸、死者・行方不明者10万5,000人余りという甚大な被害をもたらしました。
下町を中心に被害が集中したことで、下町に工場を構える玩具製造業者の復旧は困難を極めました。いち早くバラックの事務所で営業を再開した卸商が扱えるのは、木製玩具ばかりで、金属玩具が出回るまでには2か月以上を必要としたのです。
幸運にも罹災を免れた河野玩具製作所には注文が殺到し、栄市郎たちは目の回るような忙しさに追われる毎日を過ごしていました。
しかしながらそうした日々の中、独立資金の調達は思うように進まず、常に栄市郎の頭の中はお金の工面をどうするかといったことに悩まされていました。
そんな栄市郎を見かねた義父石井兼吉が資金援助を申し出てくれたのは、年も押し詰まった冬のことでした。栄市郎の夢は実現に向けて大きく動き出します。
年が明けて大正13年2月2日、すべての準備が整い、資本金千円の富山玩具製作所誕生。栄市郎21歳の冬のことでした。