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社史「軌跡~夢をカタチに~」社史「軌跡~夢をカタチに~」

第4話 荒野に光射す~おもちゃのまち、誕生

1956年(昭和31年)~1967年(昭和42年)

スカイピンポン
スカイピンポン

「スカイピンポン」は金属からプラスチックへ、素材革命が生み出した大ヒット商品であると同時に、三陽工業にとっても大きな変革を生み出す商品となりました。
新たな素材へのチャレンジ、念願だった販売会社の設立、その担い手となったのは、富山允就をはじめ、岩船浩、小島康三郎、藤井紀夫といった、栄市郎が全幅の信頼を以ってこの先のかじ取りを任せようとした若い世代のメンバーたちでした。
栄市郎は若い世代の意見に耳を傾け、大きな器でそれを受け止め、「よし、やってみろ」と委譲する度量を持ち合わせており、その先にどんな結果が待ち受けていても、すべて若者たちが成長する肥やしになると信じていたのです。
栄市郎にとって、自らの手によって産み出してきたブリキのおもちゃたちと同じくらい、否、もしかするとそれ以上に「スカイピンポン」の大ヒットは誇らしく、また感慨深いものであったのかもしれません。

会社の近代化に腐心する若者たちに目を細める一方で、栄市郎の目に映っていたのは、山積みとなった課題を前に、一歩が踏み出せない玩具業界の迷える姿だったのでした。

ちからをひとつに

昭和31年5月、栄市郎は東京輸出玩具工業協同組合(工組)の理事長に就任しました。
終戦から10年が過ぎ、戦後の回復による成長が一巡を見せたこの時期を境に、日本は近代化による成長を指向するようになっていったのでした。そしてそれはそのまま、玩具業界にも当てはまるものでした。工組の組合員数は当時227名、しかしその実態は、大多数が100人以下の小さな工場に過ぎず、不安定な経営基盤の上に成り立つ町工場の集合体に過ぎなかったのです。
当時の玩具輸出額は昭和30年度に雑貨輸出のトップとなる153憶円を記録し、その後も31年度は199憶円、32年度には200憶円を突破し、順調にその額を伸ばしていきました。しかしながらそれを支える玩具製造業者たちは、‘今’をやり過ごすことに汲々とする毎日を過ごしていたのでした。
そんな玩具業界の窮状を目の当たりにしていた栄市郎が理事長としてまず取り組んだのが、素材の共同購入事業でした。玩具づくりに必要なブリキ板を潤沢に入手するために、栄市郎は無謀にも一人、八幡製鐵(当時)に乗り込み、直接取引の交渉をおこなったのでした。
栄市郎の熱情に動かされたのか、はたまたそれなりのまとまった発注数が効いたのか、誰もが夢物語であろうと揶揄した「ちいさなまちこうば」の集合体であるおもちゃ屋の組合と八幡製鐵との直接取引が実現したのでした。さらに栄市郎は組合員への貸付事業や都に対する機械貸付申請、労務管理やプレス技術の講習会、会員親睦の運動会や野球大会など、工組として矢継ぎ早にさまざまな事業に着手し、業界の近代化に向けて持てる力を惜しみなく注いでいったのでした。
さらにこの頃、玩具産業に携わる者たちの団結を示す精神的所産のシンボルとして、製問組合と工組が力を合わせひとつの玩具会館を建設するという大きな目標を掲げたのでした。この構想は場所を巡って両者の想いが折り合わず、結果的に頓挫することとなりましたが、栄市郎はあくまでも会館建設にこだわり、工組独自の「金属玩具工業会館」を完成させたのでした。そこには、経営基盤のもろい玩具製造業者がいつか行き詰った時に、資産をもたない工組が、基金を募り会館を建てることで組合員への資金援助を可能にするのだという相互扶助の思想が根底にあったのでした。栄市郎が工組の理事長として手掛けた様々な施策には、若い頃触れた賀川豊彦の教えが色濃く影響を与えていたのでした。

工場集団化を目指して

昭和33年9月26日、三浦半島に上陸した台風22号(狩野川台風)は狩野川を氾濫させ、静岡県内で死者・行方不明者929名を出す大きな被害をもたらしました。さらに翌34年、奇しくも同じ9月26日、紀伊半島に上陸した台風15号(伊勢湾台風)が、全国32道府県において死者・行方不明者5,098名にも及ぶ甚大な被害をもたらしたのでした。伊勢湾台風がこれほどまでに大きな被害をもたらしたのは、観測史上最大となる3.55mの高潮が発生したことで、戦後十分な防災対策を講じていなかった愛知・三重両県のゼロメートル地帯を飲み込んでいったことによるものでした。

当時、輸出の半数を占める金属玩具の製造工場は、その9割が東京下町に集中しており、工組を率いる栄市郎にとって、毎年のように来襲する台風の脅威は決して他人事ではなかったのでした。もし東京下町が同様の台風被害を蒙ることになれば、日本の玩具輸出は壊滅状態に陥ってしまうだろう、日本のおもちゃを待ち望む世界の子どもたちを悲しませることになってしまうだろう。栄市郎の頭に浮かんだのは、関連企業も含めた玩具製造工場の集団化構想、ゼロメートル地帯からの移転だったのです。
昭和35年4月、工組の理事会において集団化構想が正式に決議されると、候補地を千葉県流山地区に定め、移転に向けた活動が本格化していきました。折しも、翌年には中小企業振興資金助成法が改正され、団地化促進策が国の施策として推し進められ、工場集団化の追い風となりました。まさに天啓を得たかのような栄市郎の構想は、玩具企業40社、関連企業37社もの希望者を集める一大事業となったのでした。
昭和36年4月、任意団体である千葉県金属玩具工業団地促進協議会を設立、11月には事業組合に移行させ、京葉金属玩具工場団地協同組合を発足。団地設立に向け、千葉県開発公社と流山町を交えての用地買収交渉に注力するものの、30万坪にもおよぶ用地取得は容易ではなく、買収額の折り合いが見えぬまま、地主との交渉は難航を極めたのでした。
厳しい現実はかわらないものの、誠意を尽くすことで必ず道は拓ける、そう信じて交渉を続ける栄市郎らにとって、迎えた新しい年は、団地設立実現に向けて大きく前進する希望の年になるはずでした。

年が改まりわずか5日目のこと、お屠蘇気分も一瞬にして吹き飛ぶ衝撃の文字が、朝刊各紙に踊っていたのでした。新聞を手にした瞬間、「なぜだ・・・」とつぶやいた自分の声を遠くに聞きながら、栄市郎はただ、足元が崩れる感覚に抗うしかなかったのでした。

「中小218工場の集団移動―輸出おもちゃ組合、流山町に団地造成」「土地造成、着手へ。千葉に金属玩具コンビナート」
朝刊各紙を踊ったこれらの文字は、徒に土地の価格を吊り上げ、用地買収断念を決定づけるものとなったのでした。そしてそれは、おもちゃ工場の集団化を目指す栄市郎たちにとって、進むべき道から光が失われることだったのです。

光射す方へ

闇に閉ざされた道の上で、栄市郎は一人の男の顔を思い浮かべていたのでした。
『栃木の不動産業者と言っていたか、関、そう関湊、湊興業の社長と言っていたな。』
栄市郎が関湊の訪問を受けたのは年も押し詰まった36年12月のことでした。
流山の用地買収が遅々として進まぬ状況であることを知ったうえでの来訪は、栃木県下都賀郡壬生町周辺を新たな候補地として勧めに来たのだというものでした。
壬生町周辺は戦時中、宇都宮航空隊の飛行場として使用されていた土地で、終戦とともにその役目を終えたものの、土質が農業に適さず、荒地として放置されたままになっており、望めば、20万坪でも30万坪でも購入が可能なのだと、穏やかながらも熱を帯びた口調で、関は力強く栄市郎たちに語りかけたのでした。
この時は、難航しているとはいえ、流山との交渉中ということもあり、仁義を貫く姿勢を崩さなかった栄市郎でしたが、流山が白紙となった今となっては、関の申し出が、新たな一歩を踏み出す先を照らす光になるかもしれない、そう思うのでした。

流山断念を決めたわずか2週間後、関が残していった壬生地区の地図をもとに、候補地と目される周辺を、工組の専務理事鈴木秀明を伴い、車を走らせる栄市郎の姿がありました。
舗装も施されていない県道を、土埃を巻き上げながら走る車の先には、荒涼たる荒野が広がるばかり。その風景を前に、暗澹たる思いが自然と二人を無口にさせたのでした。
確かに土地は十分ある、買収価格は坪千円もしないだろう。湊興業は東武鉄道の子会社ということで、買収資金の立て替えも確約してくれている。ただ、栄市郎たちに二の足を踏ませていたのは、東京から100㌔も離れた遠隔地であるということでした。
流山なら、本拠地を東京に置いたまま第二工場としての運営も可能だが、壬生となるとそうはいかず、家族を伴っての移住が避けられないだろう。果たしてこの地での生活は受け入れられるのだろうか。もし熟練工が移住を拒んだら、新たに未経験者を育成しなければならず、その間の生産性低下は免れないだろう。そうした状況を思えば、手を挙げた希望者の中にも二の足を踏む者が出てくるのは火を見るよりも明らかだ。希望者が減れば、その分採算が取れなくなってしまう。業界の行く末を思いながらも、その一方で組合員の家族、その生活にまで思いを巡らせ、栄市郎の心は大きく揺れるのでした。

「自分は果たしてなにをしようとしているのか?」
結論を出せぬままの栄市郎が行きついたのは、そんなシンプルな問いかけでした。

私たちは世界中の子どもたちに日本の優良なおもちゃを届けるのではなかったのか。経営基盤のもろい中小の玩具製造業者が実力をいかんなく発揮できる環境を整えるのではなかったのか。
そうだ、関連会社を含めて、玩具製造業者を有機的に結合して、共同事業で合理化を図ろう。働く人、家族のために理想的な環境作りを行ない、玩具作りを中心とした新しいまちづくりを実現しよう。それこそが工場の集団化であり、玩具製造業界の近代化なのだ。この好機を逃さない。たとえ多くの仲間が離れて行っても、共に進もうとするわずかな仲間がいてくれるだけで、私たちは力強く一歩を踏み出すことができる。
栄市郎が見つめる先には間違いなく、世界の市場を賑わせる日本のおもちゃが次々と産み出される、活気あふれるおもちゃ団地の姿があったのでした。
そして栄市郎が下した結論は、工場集団化の実現でした。

信じる道を、ただまっすぐに

欧州視察中の一行
欧州視察中の一行 写真中央が富山栄市郎
壬生の輸出玩具工業団地共同組合ビル
壬生の輸出玩具工業団地共同組合ビル

団地造成を決意してからの栄市郎は、これまで以上に精力的におもちゃ団地設立に向けて動き始めたのでした。
昭和37年3月、輸出玩具工場団地協同組合設立準備委員会を立ち上げ、翌4月には同組合の創立総会が開催され、その勢いのまま、5月には17万坪の土地買収契約が成立し、いよいよ団地設立が現実のものとなっていくのでした。そして、燃え滾る熱情の塊となって突き進む栄市郎を支えたのは、その想いに共感し、玩具業界が直面する課題を共に解決しようと立ち上がった多くの玩具産業人であり、多くの地元支援者たちでした。一人ひとりの小さな力は栄市郎のもとに結集し、道なき道を突き進む大きな力となって動き出したのです。

6月に入ると、栄市郎は工組のメンバーらと共にヨーロッパ玩具業界の視察旅行に出発しました。今回の視察旅行は、「おもちゃの町」として歴史ある西ドイツのニュールンベルグを調査することが目的の一つだったため、一行には関湊をはじめ壬生町町長小田垣健一郎、東武鉄道道田島璋などの姿も見られたのでした。
果たして、500年を超す伝統を誇るおもちゃの町ニュールンベルグの佇まいは、栄市郎たち一行の心に強い感動を与えるものでした。栄市郎の頭の中では、この時、工場団地に留まらない、新しい町づくりへとその構想が大きく広がっていったのでした。

欧州視察中の一行
欧州視察中の一行 写真中央が富山栄市郎
壬生の輸出玩具工業団地共同組合ビル
壬生の輸出玩具工業団地共同組合ビル
新設されたおもちゃのまち駅
新設されたおもちゃのまち駅
皇太子殿下(現天皇殿下)をお迎えし、壬生事業所をご案内する富山栄市郎
皇太子殿下(現天皇殿下)をお迎えし、壬生事業所をご案内する富山栄市郎

帰国後の昭和38年には玩具団地基本構図が策定され、昭和39年3月着工。
翌昭和40年2月には、それぞれの工場の他、組合事務所や計算センターを併用した会館、共同炊飯施設などが完成し、いよいよ4月1日、第一次進出12社が操業を迎えることとなりました。
そしてその2か月後には、東武鉄道宇都宮線に、栄市郎が命名した「おもちゃのまち駅」が開業し、あの荒涼とした荒野は、今や世界中の子どもたちに夢を提供する子どもたちの楽園へとその姿を変えようとしていたのでした。
その後、年度内に第二次進出13社を迎え、進出企業は25社となり、初年度約4億円だった生産額は、翌年度には約17億円へと順調にその数字を伸ばしていきました。
栄市郎が描いたおもちゃ団地構想は、小さな力の結束が、玩具業界の近代化を進める大きな原動力となることを証明したのでした。

さらに団地を沸かせたのは、昭和42年11月17日、皇太子殿下(現在の天皇陛下)の行啓を仰ぐ栄に浴したことでした。皇室の、しかも皇太子殿下をお迎えし、畏れ多くもおもちゃについてご進講申し上げる日がこようとは、明治の男、栄市郎にとって、その感慨はひとしおだったのです。

『立派なおもちゃを子どもに与えることが、立派な子どもをつくる大切な条件です。その使命に励んでください。』

滞在予定時間を超過し、熱心な視察を終えて団地を後にする時、居並ぶ組合員を見回して、皇太子殿下が口にされたお言葉が、静かに胸に沁み込んでいくのを、栄市郎は誰よりも強く確かに感じていたのでした。

新設されたおもちゃのまち駅
新設されたおもちゃのまち駅
皇太子殿下(現天皇殿下)をお迎えし、壬生事業所をご案内する富山栄市郎
皇太子殿下(現天皇殿下)をお迎えし、壬生事業所をご案内する富山栄市郎
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