第2話 ゆずれぬ想い
1924年(大正13年)~1949年(昭和24年)
富山玩具製作所創業 ~晴れて一国一城の主として~
間口3間ほどの土間にフートプレス2台とプレス機1台があるだけの小さな作業場の入り口に、『富山玩具製作所』の看板がその真新しさを恥じるかのように遠慮がちに掲げられた日、まだ夜も明けきらぬうちから、栄市郎は作業場を掃き清め、七輪に火を熾すとフートプレスの前に静かに腰を下ろした。
――― さあ、ここからすべてが始まるんだ。
大正13年2月2日、吐く息も白く、凍えるような寒い朝のことでした。
外国雑誌の中で見たドイツ玩具の精巧さと型の美しさに魅せられ、いつか必ずあれに負けないおもちゃを作るんだ、と心に誓った11歳の少年は、10年という歳月を過ごし、ようやく夢の実現に向けて確かな一歩を踏み出したのでした。
富山玩具製作所の記念すべき第一号商品をなににするか、あれこれ迷った挙句、栄市郎がこれと決めたのはゼンマイ仕掛けの赤い競争自動車「インディアン号」でした。今の自分のもてる力をすべて注ぎ込んだという自信と、果たして世間はこれを認めてくれるだろうかという不安、人一倍肝が据わっていると言われる栄市郎をもってしても、玩具問屋の暖簾をくぐる時のキリキリと胃が痛む思いは如何ともしがたいものでした。
しかしそんな栄市郎の不安は、「斬新だし、仕上げも見事なものだよ。さすが富山さんだ。」と、称賛し激励してくれた玩具問屋浅野商店の店主の一言ですっかり吹き飛んでいったのでした。
駆け出しの新米である自分の作品を評価し、想像していた以上の買値と注文を提示してくれた浅野店主の恩に報いるためにも、栄市郎は絶対に誰にも負けない素晴らしいおもちゃを作って日本一のおもちゃ屋になるんだと改めて強く心に誓うのでした。
はたして浅野店主の見立て通り「インディアン号」は国内外で大人気となり、2ヶ月ばかりが過ぎた頃には作業場のフートプレスも5台に増え、朝から晩まで機械の音が鳴りやむ暇もないほどになっていたのでした。
この頃には吉さん、秀さん2人の職人に、郷里吉川から呼び寄せた丁稚の大熊喜三郎、そして時に箱詰め作業の内職の手を借りていた近所のおかみさん連中も加わり、栄市郎の作業場は賑やかで活気にあふれるものとなっていました。
一国一城の主として順調な船出をした栄市郎に縁談話が持ち上がったのは、年も押し詰まった12月のことでした。
根が生えたように朝から晩までフートプレスの前に座り続ける姿を見るに見かねた母方の伯母おせんが持ち込んだ見合い話は思いのほかとんとん拍子に進み、操業から1年が経とうとする大正14年1月21日、栄市郎は早稲田村(現三郷市)の豪農の娘 高鹿あきと晴れて所帯を持つこととなりました。
栄市郎22歳の冬のことです。
新婚の甘い生活など望むべくもなく、結婚式の翌日にはもう、下町の玩具職人の女房としての日常があきを待ち受けていたのでした。
朝は栄市郎よりも早く起き出し、家の中の仕事が終わると、職人や近所のおかみさんに交じっておもちゃの仕上げを手伝う毎日。裁縫しかしたことがない、苦労を知らない白くて柔らかいあきの手は、いつしか機械油が染みついた黒くて荒れた玩具職人の女房の手へと変わっていったのでした。
家でも工場でも新婚らしい時間も持てない若い二人にとって、夕方、巣鴨から本所まで地金を買いにリヤカーを牽いて歩く二人きりの時間がかけがえのない夫婦の時間でした。
子どものように目を輝かせておもちゃについて語る栄市郎の横顔を見ながら、あきは改めて夫婦になった喜びを噛みしめるのでした。
モノづくりへのこだわり ~「飛行機の富山」ここにあり~
3月15日、栄市郎は手狭になった巣鴨の作業場を手放し、問屋街に近い本所区太平町に購入した100坪の土地に、新たに70坪の工場を建設したのでした。
この頃には職人や徒弟も増えており、栄市郎が一人で目配りをするには人員も工場の規模も大きくなり過ぎていました。
そこで栄市郎は、河野親方の元で修業をしていた弟の幸三郎を呼び寄せて事務方に据え、一方で職人や徒弟にはそれぞれ長となる者を決めて仕事の指揮をとらせるという、権限委譲の経営手法をいち早く取り入れていったのでした。
そして栄市郎本人はと言うと、日常の細々とした作業には一切口を挟まず、小さな部屋にこもって図面をひいては木型作りに専念するという毎日、そして図面をひくことに行き詰まると、「出かけてくる」と言っては日本橋あたりで古本屋めぐり、といった日々を送っていました。
その年の7月25日、朝日新聞朝刊には「挙国の感激を載せて訪欧機けさ出発す。歓呼とどろく代々木原頭、歴史的光景を残していざ航程2000里」と、20万人の歓呼を受けて代々木練兵場を朝日新聞社の飛行機「初風」と「東風」の二機が日本初の外国飛行へと飛び立った歓喜の記事が掲載されました。
シベリアを経由して、モスクワ、ベルリン、パリ、ロンドン、ブリュッセル、ローマを歴訪するという、まさに国を挙げての大飛行プロジェクトに、国内の航空熱の高まりは最高潮を迎えていました。
そして玩具業界も当然この機を逃すはずもなく、猫も杓子も飛行機玩具に飛びついたのでした。栄市郎にとってもまた、長年温め続けてきた飛行機への情熱を思う存分発揮できる大きなチャンスの訪れだったのです。
業界内に「飛行機の富山」として栄市郎の名前が知れ渡るきっかけとなったのは、糸吊り旋回ゼンマイ複葉機「ブレゲー」でした。
天井から吊るした飛行機は、ゼンマイをまくと翼の後ろにあるプロペラが回転し機体がぐるぐると旋回し始めるといったもので、機体を軽くするために当時国内では入手困難だったアルミを材料として採用しており、より良い商品を作るためなら一切の妥協を許さぬ栄市郎のモノづくりへのこだわり、知識と情熱は同業者のそれを遥かに凌駕するものでした。
この頃の栄市郎の工場のことを後に同業者の水野鼎蔵氏はこう記しています。
当時、日本での飛行機玩具の花形は、なんといっても富山君の「ブレンゲー」であった。
一度工場を見せてもらったことがあるが、工場が舞台のようにできていて、正面一段の高座に家族および幹部の監督席兼作業場があり、低い広間で多数の工員が汗だくで作業をしていたのを覚えている。
入口に完成品が山積してあったので、積込品かと聞いたら、これはたった一日の仕上り高で、しかも一日の売高だと聞かされてびっくりしたものである。
往々にして一人の成功者が出た時に、これに刺激されて他の製造家の研究意欲が高まり斬新精巧な新型が続出して、一大進歩を劃するものである。
(出展:東京玩具商報)
おもちゃづくりにかける栄市郎の情熱は、知らず知らずのうちに、日本の玩具産業全体の発展を牽引していたのでした。
殺到する注文をさばききれなくなったことから、栄市郎は向島区寺島町に320坪の土地を購入し、自ら図面をひいて新工場の建設に着手しました。
昭和2年春、業界初となる流れ作業方式の工場が誕生したのです。
玩具業界初となるのはもう一つ、工場内に玩具研究部門を設置したことでした。
栄市郎は「おもちゃは新鮮な驚き、独創的な感覚、意匠、これらがないと進歩はない」との強い信念をもっており、玩具研究部門はその現れだったのです。
昭和4年10月、アメリカウォール街の大暴落に端を発した世界恐慌の余波は日本にまで波及し、加えて、昭和5年1月には浜口雄幸内閣により金解禁が断行されたことで、日本経済は混乱を極めていきました。
玩具産業もまた例外ではなく、輸出の減退、国内市場の縮減で事業から撤退する玩具製造業者が後を絶たなくなっていったのです。
それは富山玩具製作所とて同じことで、栄市郎は事業存続のために経営者として初めて、苦渋の決断を迫られることになりました。
内職のおかみさんたちと数名の職人には辞めてもらわざるを得ない状況に、栄市郎は心の中で手を合わせながらも、残った従業員を2班に分け、競争で経費節約と効率化を競わせることで品質確保に努め、ピンチをチャンスに変えることに腐心したのでした。
そしてこの苦しい時期を乗り越えた時、また世界を賑わすヒット商品を生み出すためにも研究部門にだけは手をつけることはしない、栄市郎の確固たる信念の下、新製品の開発に取り組んだ成果は、昭和5年の「宙返り飛行機」、昭和6年の「ウエルカム」という大ヒットへと繋がっていったのでした。
共存共栄を胸に ~業界の発展を目指して~
昭和恐慌の波は、製造問屋主導体制の下、経済的に弱い立場にあった玩具製造業者の多くを倒産へと呑みこんでいきました。
「日本の玩具業界が世界と伍して戦うためには、玩具製造業者が切磋琢磨し、近代化・合理化を進め、最新の生産技術や設備を開発していかなければならない。」「そのためにも製造問屋との間に残る歩引きや返品等の古い商慣習を見直して、強い企業体質を作り上げていかなければならない。」
同業者たちの苦境を目の当たりにした栄市郎は、弱き者たちが団結していくことの大切さを改めて思い知らされることとなりました。
そしてその基となったのは、創業当時友人たちに誘われて足を運んだ教会で耳にした、キリスト者であり社会運動家でもある賀川豊彦の思想でした。
賀川豊彦の思想の根底に流れる「友愛=相互扶助」といった教えは、栄市郎の心の奥底に静かに、しかし確実に拡がっていくのでした。
賀川豊彦の思想に影響を受けた栄市郎をはじめとする業界の若き志士たちは、団結することで玩具製造者の地位向上を目指し、昭和5年、東京玩具工業同志会を設立したのでした。
共存共栄を強く希う栄市郎たちの事業哲学が反映された設立趣意書は玩具製造に関わる多くの中小事業者の共感を呼び、同志会への参加希望者は日に日に増えていきました。
そうした状況に、栄市郎たちは同志会の活動を一歩進め、浅草区蔵前に東京玩具協同販売部を設立し、これまで製造問屋が仕切ってきた玩具の価格設定を製造業者自らが決めるという思いきった政策を実現させます。日本の玩具業界にとって画期的な試みでしたが、この動きはこれまでの玩具業界を支配してきた製造問屋には到底受け入れられるものではありませんでした。
製造問屋は同志会の中心的メンバーであった富山玩具製作所や小菅玩具製作所の製品をボイコットするという制裁を加え、これに対し栄市郎たちは露店や地方の小売店への直販という策で対抗していくという徹底抗戦で立ち向かっていったのでした。
しかしながらこうした状況は長く続きませんでした。栄市郎たちのおもちゃを希望するお客様の声の高まりがこの状況を一変させていったのです。
お客様の要望に応えるカタチで、製造問屋はデパートや専門店に彼らの商品を卸さざるを得なくなり、大幅な取引改善が実現していったのです。
しかしながらそうそう話はうまく運ばず、こうした状況に勢いを得て、同志会を発展的に解消し工業組合を組織しようとした栄市郎たちの計画は、製造問屋の強硬な抵抗にあい一時頓挫することとなったのでした。
昭和8年、同志会メンバーは自らの進むべき道を「東京玩具工業同志会産業指導精神」と題した3,000字にも及ぶ大起草文にしたため世に問うたのでした。
彼らは、起草文に記された共存共栄の精神のもとひたすら研鑽に努め、優良な玩具を次々に生み出し、ついには製造問屋との間に親睦団体「不動会」(後の「大師会」)を設立するまでに、その関係性を改善させていきました。
戦争の暗い影、そして復興 ~平和産業としてのおもちゃ屋の矜持~
輸出玩具の需要は年を追うごとに高まりを見せ、富山玩具製作所でも寺島工場だけでは注文をさばききれないほどになっていました。
昭和10年、こうした状況を改善するために、栄市郎は埼玉県桶川市に1万坪の敷地を確保し、長さ35間幅7間にも及ぶ工場の建設を進め、2年後には生産を開始させたのでした。
おもちゃの生産のために工場まで作ってしまう、栄市郎のモノづくりへのこだわりは相変わらずのものでした。
操業を開始した桶川工場では四発の飛行機「クリッパー」や金属キャタピラを自動機によって生産した「タンク」などのヒット商品が次々と産み出されては世界中へと出荷されていったのでした。
しかし、時代の流れは栄市郎のおもちゃづくりに暗い影を落としていくのでした。昭和12年7月7日勃発した盧溝橋事件に端を発し、日中戦争は泥沼へと突入していきます。
昭和13年には、一部の工場を政府管理にするという軍需工業動員法が発布され、国主導の工場管理体制が進む中、玩具業界にも工業組合を設立せよとの命令が下されました。
栄市郎ら玩具製造業者たちの悲願であった工業組合の設立は、皮肉にも国からのたった一片の通達により実現することとなったのでした。
5月31日東京金属玩具工業組合設立。
しかしその実態は、栄市郎たちが望んだそれとは全く異なるものでした。
組合の主目的は金属玩具を作るための資材統制配給機関であり、日中戦争の長期化でその配給すら望めない状況となり、金属玩具の材料はもっぱら武器弾丸に変わり、栄市郎ら玩具製造業者は材料の入手が日増しに困難になっていきました。
さらに追い打ちをかけるように、武器弾薬確保のための法規制が次々と公布され、いよいよ8月14日には、銅合金、銅製品の金属玩具製造禁止が通達される事態となりました。
おもちゃが作れなくなった富山玩具製作所は、500人いた工員を解雇せざるを得ない状況となり、それに呼応するかのように若い工員が次々と戦地へと借りだされていきました。照りつける日差しの中、わずか1年足らずで桶川工場から機械の音が消えたのでした。
昭和14年、第二次世界大戦勃発。
日米通商条約は破棄され、アメリカへの輸出はできなくなってしまいました。
おもちゃを作ろうにも材料は手に入らない。金属の代わりに手に入るのは、紙やベニヤ板、木や竹、泥といったものしかなく、栄市郎は木製玩具の開発に没頭していったのでした。
そしてこの年発売された、紐を引っ張ると上体を左右に動かしながら進む「歩く兵隊」は大ヒットを記録し、商工省からは優良工芸品として表彰されたのでした。
昭和16年、葛飾区立石に木製玩具の製造を行う「太陽木工場」を設立した栄市郎は、生産工程の研究を重ね、木板を煮沸することで柔らかくしてプレスで型を抜くという手法を編み出し、木工製品で日本初となる量産化を実現したのでした。
どんな状況にあっても、栄市郎のおもちゃづくりへの探求心は決して失われることはなかったのでした。
この年の12月、いよいよ日本は太平洋戦争へと突入していきました。実情はともあれ、玩具製造者たちにとってのよりどころであった東京金属玩具工業組合も戦況が進む中、解散を余儀なくされることになりました。いよいよ玩具製造が叶わない時局を迎えていったのです。
栄市郎もまた、軍需産業への転身を余儀なくされ、太陽木工場では横須賀鎮守府の依頼により、軍艦の暗幕に使う木製の滑車づくりを請け負うこととなったのです。
ここでも栄市郎は持ち前の創意工夫による効率化と玩具づくりでは当たり前のプレスを利用した生産工程の確立により、職人がノミをふるって日産3~4個程度しかできない滑車造りを日産300個という大量生産で実現させ周囲を驚かせるのでした。
しかし、どんなに称賛の声をもらっても、おもちゃづくりができないという空しさは、栄市郎の心にぽっかりと大きな穴をあけてしまったようでした。
おもちゃ産業が栄えるためには、なによりも平和な国でなければならない、おもちゃづくりの翼をもがれた栄市郎はそう強く思うのでした。
昭和20年8月15日、終戦。
寺島工場を処分し、工場にあった機械類をすべて立石に運び込んだ栄市郎。ようやく大好きなおもちゃづくりができる、誰もが栄市郎の喜びを我がことのように感じていたにもかかわらず、なぜか栄市郎はおもちゃづくりを始めようとしませんでした。
近所の中川で日がな一日釣り糸を垂れる毎日。来る日も来る日も川べりに座り込む栄市郎を見ながら、仲間たちはその真意を量りかねていました。「もう戦争は終わったのに、なぜ富山さんはおもちゃを作らないんだ?」
そんな仲間の問いかけに栄市郎は、「俺のおもちゃが泣くからさ」と応えるばかりでした。
日本は終戦を迎えたとはいえ、復興にはまだまだ程遠く、さまざまな物資が不足していました。正規のルートで材料を入手することは極めて困難な時代で、生きるためには止むなしとの風潮が大勢を占めている状況にあっても、栄市郎はブリキを売りに来た材木屋に「子どものおもちゃをヤミの材料で作れるか!」と一喝しては追い払ってしまうのでした。
そんな中、戦後まもない暗くよどんだ時代におもちゃで光を照らしたのは、同志会の仲間であった小菅松蔵が作った占領軍のジープを模した玩具で、「小菅のジープ」と呼ばれ、昭和20年12月の発売と同時に10万個を販売する大ヒット商品となりました。
また、翌21年春に発売された日光玩具佐藤三次の「セダン型ゼンマイ自動車」は年内50万個、栄市郎の弟幸三郎は昭和23年に「羽根付きひよこ」を発売し、これもまた50万個のヒット商品となったのです。そんな仲間たちの活躍を知ってか知らずか、栄市郎は相変わらず重い腰をあげることはしませんでした。
終戦後、機械の音が途絶えていた富山玩具製作所は、昭和21年に復員してきた木曽国春によって細々と再開されたのでした。ヤミの材料は使えない。朝も早くから釣竿を担いで出かけて行く栄市郎を黙って送り出し、あきは長男長次郎(のちの允就二代目社長)とともに、占領軍が捨てた空き缶を苛性ソーダで洗浄して分解し、平らにしておもちゃの材料にするといった作業に精を出し、いつの日か必ずまた玩具づくりに戻ってくるであろう栄市郎を待ち続けました。
そして昭和24年、統制解除の報にいよいよ栄市郎が動き始めたのでした。葛飾区立石本田町での富山玩具製作所再開。すでにこの時、栄市郎の頭の中では、誰一人として想像すらできないほどのとんでもない企てが進行していたのでした。
時に栄市郎46歳、覚悟の再出発でした。(文中敬称略)